トラウマの続き①

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前回までの話はこちらです>

 

ステージで輝いている人を客席から評価や批判をしていた方が楽なんです。

だって、何とでも言えるし、自分が強い立場に立ったような気になりますから。

 

親もそういうタイプの人間でした。自分は一番ではない(またはなれない)から、客席から活躍している人を評価するのです。

確かに、いい気分になれるし、自分が批判をされることがないので、同じような考えが私にも埋め込まれていきました。

 

小学校の委員会のスピーチの後は、ピアノの発表会がありました。

「人前に出ること、自分の姿をオープンに発表することが苦痛である」という脳に刷り込まれた私にとっては、ピアノの発表会など、苦痛でしかありませんでした。

 

毎日何時間も練習してきて、涙を流しながら先生に特訓をしてもらったのに、本番になると、公開処刑されているような気分になりました。

 

自分が何をやってるのかわからないまま、手だけが動いて、気がついたら自分の番が終わっているという感じでした。

「みんなの話題のネタにしかなっていない」。小学生なのにこんなことまで考えるようになっていたのです。

 

中学、高校も、個人プレーよりもチームプレーが好きでした。

学校の勉強は、ただテスト対策をすればいいものは勉強するだけという学生生活でした。

 

でも、そんな時に出会ったのが英語でした。

違う世界、かっこいい発音、すぐに英語が好きになりました。

普通の人であれば、「ここが人生の転機!」となりそうですが、私の場合は、英語に出会っても特にここで人生が変わったわけではありませんでした。

 

それだけ、小さい時のトラウマや拒絶の経験は、気がつかないくらいに記憶に張り付いているんですね。

怖いものです。

 

その後も「注目されることが嫌い、でも少しは目立ったことをしたい気持ちがある」というので、団体で演奏するオーケストラやコーラス部に入ったりしました。

(後に、舞台が好きなのに嫌な経験をしたから、「目立っている人に嫉妬する」「目立っている人を好きになれない」という感情に気がつきます)

 

子ども時代に植え付けられた拒絶の感覚は、大学生になっても植え付けられたままでした。

選ぶ役職や立場と言えば、サポート的な役割、マネージャー、秘書、彼氏のために一生懸命料理を作る(ことを演じる)。

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知らず知らずにやっていることでも、感覚的には、「つまらないけど、人生こんなもんかな?」という感じでした。

(その役割を否定しているわけではなくて、自分の感覚としての意見です)

 

自分のミッションに従って、多くの人がすることと違っても、目立ったことをして価値を届けたい。

 

本当の私は、こんなことを思っていました。

 

でも、小学校時代に覚えた「舞台よりも客席が気持ちいい」「女子は選ばれるように女性らしく生きるほうがいい」。

こういう私にとってはどうでもいい子どもの私の価値観に振り回されていたのです。

 

どれも自分の弱さを隠すものでした。

 

だって、別に、誰にも選ばれなくたって、自分がやりたいことをやればいいじゃないですか。

舞台で99人の観客に笑われたって、1人に共感してもらえて、その人の人生に価値を提供できたらいいじゃないですか。

たくさんの人に好きだと言ってもらわなくても、自分らしく生きてたった一人の人に出会えたらいいじゃないですか。

 

こんなことを思い始めたのは、英語力をつけて世界の人と出会い始めたころからです。おそらく留学時~日本に帰国した時だったと思います。

5歳のトラウマを経験してから、約20年以上は経っていました。

 

自分の弱さというのは、自分が弱い立場になる時のことです。

 

舞台が好きで、思い切って舞台に出ても、客席から批判されるかもしれない。

全力で愛している人に気持ちを伝えても、相手は同じ気持ちではないかもしれない。

全力で一つの事を学んでも、自分が思ったほどの結果がでないかもしれない。

チャンスに賭けても、未来がわからず、失敗するかもしれない。

 

 

続く

 

 

 

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