「日本語をしゃべる友達を探しています」
こんなメッセージから始まったメル友と6か月後には結婚してスペインに移住するなんて、あの時の私は考えてもいませんでした。
というか、スペインってどこにあるんだっけ…?と思ったのが最初の印象。
その後は移住して3か月後に結婚、3年後には4人家族になりました。
現在の生活はというと、4年前には考えられなかったような生活をしています。
自慢でもなく誇張でもなく言わせてもらうと、
私の夫は会う日本人の99%が「かっこいい」というほどのイケメンです。
また、友人にうらやましがられるほど、夫は家族思いで育児にも積極的。
料理は私より上手だったりします。彼が作るスペイン料理はレストラン級です。
娘二人も超かわいいです。日本に帰るたびに、道行く女子高生にかわいいと言われて、
「写真とってもいいですか?」と言われるほどです。
ちなみに、私は全然かわいくありません。
どちらかというと、目立たないタイプで社会不適応タイプの人間です。
娘と二人で写真をとったら、「お手伝いのマレーシア人?って言われそうだね」と母が言っていました。
あまりにも似ていないので、子どもと歩いていても、「あなたの子どもですか?」って聞かれます。
妻、母、人として私のことを尊敬し大切にしてくれる夫、かわいい子ども
愛する家族との幸せな暮らし、ストレスのない自由な仕事、
自分らしさを大切にでき、一番したかったことができる人生
健康的で豊かな暮らし
今の環境で生活するようになった人生の転機と英語学習について書いていきます。
子ども時代
5歳で拒絶を体験し、その後の男女関係に影響
私の人生に大きく影響を与えたのは、5歳の時のショックな体験でした。
5歳の時、幼稚園のイベントで、踊りを踊ることになりました。おそらく、学習発表会のようなものだったのでしょう。
その踊りの練習の時に、幼稚園の先生が「はい、じゃあ男の子は好きな女の子を選んで、手をつないで体育館に行ってくださいね」と言いました。
男の子はいつも仲良しの女の子を選んで、手をとって体育館に行きます。
一人一人減っていく女の子達。
私は最後まで「誰に選んでもらえるのかなあ」なんて思っていました。
女の子の最後の3人になりました。
男の子は私を選んでくれませんでした。
最後の「余った女の子」になった私は「誰にも必要とされなかったんだ」と悲しい気持ちになりました。
先生が、電気を消して、「じゃあもういいから、余った子で体育館に行っていいよ」と言いました。
教室が暗くて、その時体育館に行く時には、黙って速足で行きました。
幼稚園の先生は私のことは覚えていないと思いますが、その時に、「私は選んでもらえないかわいくない女の子なんだ」という考えが植え付きました。
それからというもの、「私はかわいくないから他のことで頑張らないと」という劣等感、「クラスでできる子にならないと認めてもらえない」という考えになりました。
~5歳までの英語体験
母親が「習い事の○○体験」が大好きで、その中の一つに英語が入っていました。
私は今アラフォーですが、当時は通信教育で、教材とテープが送られてきて、「家で親がやる」というのが主流だったらしいです。
私の母親も、一応体験版に申し込んで、色々繰り返しテープなどを私に聞かせていたらしいですが、
ある日、「Onion」のことを、「オニオン」ではなくて、「アニオン(英語っぽい発音)」で言ったので、すごくびっくりしたそうです。
もちろん私は覚えていませんが、子どもの脳はそのまま真似をするのが上手だということなんですね。
5歳までの英語体験は、あまりありませんでした。
劣等感にあふれた子ども時代
5歳の時のショックな出来事が、小学校の生活にも影響しました。
「私はいい子じゃないと認められない」「勉強ができないと認められない」そんな承認欲求がムクムクと育っていきました。
だから、「クラスでは、何でも一番じゃないとダメなんだ」「可愛くなくても誰よりも先生に認められたい」「親に愛されるためにはいい点数を取らないといけない」
毎日そんな気持ちでした。
特に、親にも「かわいい」と言われるよりも「よくできた」方を褒められるようになりました。
「そうか、こうすれば認められるんだ」「成績がいいことで余った子にならずに済むんだ」。
という考えになりました。
小学校では、「掛け算を速く言えるかな」テストや、リコーダーのうまさ、発表の回数など何でも一番。
でもその裏には、ただ「余った子になりたくない」「愛されない恐怖心」「可愛くないという劣等感」があったんです。
10歳の時に200人の前で
小学校の時に、上級生が運営している、「委員会」ってありませんでしたか?
運営委員会のようなものです。
10歳の時に、立候補するように勧められました。
「できる子」でいるために努力をするのは好きでしたが、人前に出るのは好きではなかった私。
「本当に嫌なんだけどなあ…」と言いながら、先生も「かおりちゃんのことをみんないいって思ってくれているからね、やってみようね」の一言でした。
その時、「本当に嫌だから違う人を選んでください」という勇気もありませんでした。
ただその時、他に立候補したい人が誰もいなくて、ただ先生は「誰かに決めないと次に進めない」という気持ちもあったと思います。
私が立候補をするのが嫌だった理由は、
立候補者としてのスピーチをみんなの前でやること
パブリックスピーキングが初めてだということ
みんなにどう思われるか怖かったこと
もし失敗したらどうしようという恐怖
があったからです。
今考えてみると、「やりたくないので辞退します」と言っても何の問題も内容に思えますが、
10歳の頃の私は、辞めることがなんだか「負け」のような気がしてなりませんでした。
だから、初めてのパブリックスピーキングを頑張ってみることにしました。
立候補することになったのは、委員会の委員長でした。
特になぜやりたいのかわからなかったけど、とりあえず作文を書いて先生に見てもらうことにしました。
その時の担任の先生は、「よくかけたね、これで作文を読めば大丈夫だよ」と言ってくれた気がします。
別に立候補したくもなかったので、作文用紙1枚を埋めるのがやっとでした。
そしてスピーチの日が近づいてきました。
スピーチの前日、私は熱を出して学校を休みました。よほど嫌だったのでしょう。
学校の先生に電話をして、「体調が悪いから欠席する」ということを伝えました。
でも、「かおりちゃんが来てくれたら嬉しい、みんな待っているからね」ということを言われました。
10歳の私ながらに、「やっぱり欠席するのはよくないな」「せっかくみんなが選んでくれたのだから、行ってパブリックスピーキングやってみよう」と
スピーチをするためだけに14:00頃、スピーチの時間になってから学校に行きました。
クラスの子たちは、私のために応援メッセージを考えてくれていて、本当に「何だか頑張らないと悪いなあ」という気持ちが強くなってきました。
さらに「いいパフォーマンスをしないと」という気持ちと「本当は人前に出て何かをやるのが怖いのに」という気持ちの間で葛藤がありました。
上級生が集まる会だったので、全体で150人~200人ほどの生徒がいました。
そこで、一人でみんなの前に立って作文を読むのです。
当時の私にとってみたら、大ごとでした。
立候補者は、みんなの前に椅子に座って待ちます。
その時、6年生の女子が、私の方を見てひそひそと何かを話しているのに気がつきました。
どうやら私のことを言っているようでした。
「何あの子、変な恰好」
「変な座り方だし、怖い顔だよ」
「大丈夫かな」
こんな言葉が聞こえてきました。
「勉強ができるいい子」でいることで認められたいと思って頑張ってきた私の心は傷つきました。
外見がかわいくないし、ぽっちゃり体系だったので、見た目はコンプレックスの塊でした。
大丈夫、がんばろうと自分に自信を持たせるようにがんばっていた私に、このメッセージは突き刺さりました。
「見た目が悪い」
「変な恰好」
こんなことを言われて、自信満々でスピーチができる10歳ではありませんでした。
そして私の番になりました。
私のスピーチの前には、クラスの友達が、応援メッセージを叫んでくれていました。
偶然、私が好きだった男の子でした。
私は頑張れるような、早く終わってほしいような気持ちになりました。
スピーチ台に上った私は、「150人ってこんなに多いんだ」「この作文を読まないで舞台から降りてしまいたい」と思いました。
そして、練習してきた作文も、小さな声で読むことしかできなかったので、さらに会場が静まり返る、自分の緊張感が増すという状況になりました。
早く読み終わりたかったので、文を飛ばし飛ばし早口で読みました。
やっと私の番が終わって自分の椅子に座った時には、涙をこらえるのがやっとでした。
下を向いたまま、誰にも顔を合わせたくありませんでした。
さっき私の悪口を言っていた6年生は、私が泣きそうなのを見て、もう何も言わなくなっていました。
私の次のスピーチでは、隣のクラスで人気者のハーフの男の子がスピーチをしていました。
人前に出てジョークを言ったり、ステージの上で注目されるのが大好きな男の子です。
会場の雰囲気も一気に楽しく明るい雰囲気になりました。
誰が見ても、彼のスピーチの方がいい、彼が当選するのが目に見えていました。
スピーチが終わったので、私は「体調が悪いから帰ります」と家に帰りました。
顔を合わせたクラスの友達が一言「よかったよ」と言ってくれました。
誰が見てもダメなスピーチだったのに、慰めの言葉をもらうのが嫌でした。
家に帰って数日間は学校に行きませんでした。
失敗した、パブリックスピーキングで上手くできなかった、委員会のメンバーにも選ばれなかった、最悪。
こんなことしか考えられませんでした。
さらに、好きな男の子に応援してもらったのに、上手くできなかった。
自分の取り柄は「いい子、優秀であること」でしかないのに。
自分のいい所がなくなってしまったとまで思いました。
小学校で学んだこと
- ステージの上に上がるのは損だ
- 人と違う意見を言うより、周りの人と同じでいたほうが楽
- 周りと同じが一番いい
- 舞台の上の人を批判していた方が優越感に浸れるし、偉い気持ちでいられる
小学校での英語体験
今は小学校でも英語のクラスがあるようですが、私の時代は英語のクラスはありませんでした。
習い事で、地元の英語クラスに通わせてもらっていました。
当時、パブリックスピーキングで大恥をかいたり、体型にコンプレックスがあった私は、友達ができるのが嬉しかったので、
英語のクラスには、友達ができるので行っていました。
友達と帰りにミスタードーナツを食べたり、親にはあまり買ってもらえなかったファンタやコーラを飲めるのが嬉しくて英語のクラスを続けていました。
この時の英語のクラスの内容は、カードで、色、時間、挨拶、場所を覚えるレベルでした。
小学生ながらに、「これでどうやって英語がしゃべれるようになるのかな」と疑問を持ちながらも、ゲームやおやつがあったので英語を続けていました。
習い事の帰りに、公衆電話から親に冗談で英語で電話をして、
「ハロー、アイムカオリ、アイアムサッポロ、シーユー」と言ったりしていました。
受験が近づくと、英語よりも受験が大切だったので自然に辞めていく子が増え、私も辞めました。
英検5級だったか、児童英検をとったか覚えていませんが、何かジュニア系の資格を一応取った気がします。
中学高校時代
過去を捨てたかった中学、高校時代
小学生ながらに、「小学生の時の嫌な思い出を捨て去りたい」と思っていました。
人と違う所に行きたいと思った私は、受験をして遠くの中高一貫の学校に行くことにしました。
新しい友達、新しい先生、新しい環境で全てがうまくいくような気がしました。
11歳、12歳では受験のために猛勉強しました。
塾では外見のことでいじめられました。
塾に通っている子どもたちは、都市部に住んでいる子どもたちです。
いつもオシャレな恰好をして可愛い文房具も揃えて塾に来ていました。
そんな中で私は、ファッションもどんなものがいいのかわからないし、可愛いものを持っていませんでした。
塾に入るのが周りの人よりも遅かったので、塾ではいつもできない生徒。
先生にあてられると、間違っていたらいやなので「わかりません」と毎回言っていました。
特に算数は苦手で、いつも先生にあてられて黒板で問題をすらすら解いている人を見て、「私ってやっぱり取り柄がないのかな」なんて思っていました。
難しい問題や分厚い問題集を頑張って解いて、家庭教師の先生と勉強をしているうちに、とりあえず志望校に合格することができました。
新しい道が開けた気がしました。
みなが知らない学校に行くのは、最初は緊張するけれど、学校の雰囲気も好きだったし、大好きな学校だったので
やっぱり自分で選んでよかったなと思いました。
受験のために通っていた塾の友達もいたので、すぐに新しい学校に慣れることができました。
英語に力を入れていた中学高校だったので、英語がどんどん好きになりました。
「人と違うことをしてはいけない」「人と同じでなければいけない」という考えが守られつつも、本当は個性を発揮できる、新しい世界に飛び出していける英語が大好きになりました。
学校の英語の勉強を頑張れば、「いい子の自分」も実現できるし、個性も大切にできる。
さらに、どうやら大好きなアメリカ英語を話しているアメリカでは、自分の意見をはっきりと言うのがかっこいいらしい。
こんなことに気がつきました。
アメリカでは意見を主張するのがかっこいい。
これだけでアメリカを夢見るようになりました。
高校生では、ホームステイプログラムや、ボランティアプログラムでタイに行ったりしました。
このように色々な経験をしていく中でどうやら「人と違ってもいいのかもしれない」「みんな違ってみんないいんだ」という考えに変わっていきました。
ただ、この中高一貫校では、「女性としての生き方」をすごく大切にしていました。
女性としてどういうサポートができるか。
女性らしいケア
女性らしい生き方
女性らしい振る舞い
女性らしい心遣い
女性らしい
女性として
女性ならではの
女性だから
先生や学校が全てだと思っていた私は、もちろん同じことを唱えるようになっていました。
将来の夢が「主婦」「お金持ちと結婚」「家の手伝い」「3年働いて結婚」という友達がたくさんいました。
「初めて付き合った彼氏と結婚するのが幸せ」「東大か慶応の彼氏と付き合った方がいい」
周りの人たちに同意しながらも、「本当にそれが幸せなのかな」という小さな疑いが心の中にありました。
中学高校で学んだこと
- 「みんな違ってみんないい」の心
- アメリカは最高だ
- 女性らしく生きるのが勝ち組だ
高校の終わりに「アメリカの大学に行きたい」と両親に言ってみました。
「海外行ってその後どうするの」「日本の大学も出ないで、これから先困るよ」と言われました。
中学高校の英語学習
中学高校は、「英語教育」を売りにしている学校でした。
毎日英語のクラスがあり、週に2回は会話のクラスがありました。
英語ネイティブの先生や、帰国子女が教えているような学校でした。
もとJAL国際線のCAだった先生が一番人気の先生でした。
先生からは英語を教わるよりも、CA時代の話や英語ができたらやってくる楽しい世界の話などを聞くのがみんな好きでした。
今もある程度「英語ができたらすごい」と思われるかもしれませんが、当時は「英語ができたら勝ち組」感がすごかったらしいです。
そういうキラキラした未来を与えてくれるのが英語、英語のクラスは思春期で難しい年代でも、みんないい子に受けていました。
そういえば、ただ一人、帰国子女の子が「あえて何も言わないけど」という態度でしたね。
その帰国子女の友達は、親の仕事の都合で、子ども時代をアメリカで過ごしていた子でした。
ちょうど10歳くらいまでアメリカに住んでいたそうです。
なので、英語は文法から習わない年代に海外で住んでいたことになります。
だから、文法+少しずつの会話から習っている私たちを見て、「これでできるようになるのかな」という気持ちがあったと思います。
彼女の気持ちもすごくわかります。
そして、いくら英語教育に力を入れていても、やはり英語に触れる時間は少ないということですね。
参考までに、アジア諸国と日本との英語教育の時間はこんなに違うということを記事にしています。
大学時代
「女性らしい」が一番の大学時代
一貫だったので、そのまま大学に進みました。
「大学に行けなければ人生終わりだ」と思って生きていましたから、合格したことを聞いて人生が救われたような気持ちでした。
とりあえず、学校の教え通り、女性らしく生きてみることにしました。
合コンに参加して
彼氏を見つけて
学校の成績をそこそことって
オシャレをして
仲良しの友達を作って
適当にバイトして
就活をして
卒業しました
これらが主に4年間にしたことです。
大学時代に学んだこと
- 周りと同じことをしていれば傷つかない
- 愛されるためには女性らしくおとなしくしてた方がいい
- 当たり障りのないのが幸せ
大学時代の英語学習
最初の英語クラス分けテストで、超がんばってしまいました。
文法とリスニングでレベル分けされるテストでした。
その結果、イギリス生まれ、イギリス育ちの日本人の先生が教える帰国子女クラスに入ることになってしましました。
テスト対策は得意だったものの、
高校時代のホームステイでの
「英語しゃべれない体験」
「英会話学校ではプライドがじゃまをしてしゃべれない体験」
「英語ができるようになったらしゃべる心」
に影響されていた私は、全く英語をしゃべることができませんでした。
さらに、周りの人が英語がしゃべれることで、自分と比較をして、さらに劣等感の塊に…
大学生活はもっと楽だと思っていたのに、
「こんなに勉強するのは嫌だなあ…」
「英語をして何かいいことがあるのかな」
「それよりも、楽をして女性らしく生きていたほうが正解っぽい」
こんな気持ちが生まれていました。
高校まで親の期待に沿えるように頑張ったのだから、今は、バイトして、遊んで、適当に彼氏を作って、卒業して少ししたら結婚して退職したい。
周りの人と同じことを考えていました。
正直、「人生こんなものなのかな」というやる気のない大学生になっていました。
社会人
最初の職場で「人生ってこれだけ?」を考える
たまたま、倍率が高かった某法律事務所の秘書として雇われました。
感覚で生きていた私は、「一番初めに内定をもらったところが運命なのだ」と思って、その職場に雇ってもらうことにしました。
職場は華やかな職場でした。
キレイなオフィス、優しい先輩秘書、周りはおいしいランチのレストランがたくさん、弁護士の先生とのおいしい食事会。
何が不満なのと思われるような職場です。
ある時、私は担当の先生が変わり、近くの先輩秘書にいじめられるようになりました。
その先輩秘書は、私よりも11歳くらい年上で、ベテランの秘書でした。
私が新人だったので、「教えてあげなきゃ」という思いだったと思います。
彼女が決めた仕事ができなければ、ランチの時間はないということを決められていました。
初めての職場でこのような扱いを受けた私は、自分の存在を否定するようになっていきました。
人事部に相談したり、周りの人に相談することもできませんでした。
ただ新人だったので、「できない私が悪いんだ」ということを毎日思っていました。
毎日、
「10年後、5年後、あんな風になりたいのかな」
「毎日同じ机に座って同じことをやっていたいのかな」
「仕事ってこんな感じなのかな」
そういうことを考えていました。
1年間勤めて辞めました。
その後は、英語関係の仕事を転々としましたが、どうしても留学したかったので、自分で貯めたお金と親に借金をして
オーストラリアに行ってみることにしました。
仕事を転々としてからは、昼はオフィスで、夜はコンビニや居酒屋でバイトをしました。
さらにTOEFLの勉強をして、英語のドラマを見ながら、海外に住むことを毎日考えていました。
TOEFLの勉強時間は毎日2時間程度、睡眠時間を削ってやっていました。
就活時代にTOEIC800点で鼻高々だった私は、TOEFLのスコアでは、海外の語学学校に申請できないほど英語力がありませんでした。
TOEFLは、スピーキングなど本当に英語が使えるかを測定されるからですね。
最初の職場で学んだこと
- 同じ職場の先輩のようになりたいかを考える
- 5年後、10年後の自分像をイメージする
- 周りとかあんまり関係なくて自分がどうか
- 自分で行動しようと思ったらできる
社会人になってからの英語学習
学校とかは関係なく、自分がどのくらいできるかやってみたいという気持ちがありました。
だから、留学できるレベルのTOEFLをとってみようという気持ちがありました。
英会話学校に行くお金も時間もなかったので、自分でやりました。
TOEFLのための勉強時間は2つの仕事の合間に2時間以上、隙間時間は全て英語にしました。
この頃から、もうインターネットでLanguage Exchangeが流行りだしていた頃でした。
オンラインチャットだけで、彼らのネイティブの英語表現をパクることにしました。
チャットで英語で話している間だけでも、「脳みそが英語を使うように働いてくれているから効果的だろう」と思っていました。
この時に好きだったドラマは、「Sex and the City」と「The Office」というアメリカのコメディーです。
「英語ができたら、こんなに自由に楽しく自分を表現できるんだ」という気持ちでした。
特に、海外の恋愛や結婚事情は自由に見えました。
別に彼氏や彼女がいてもいなくても、パートナーの性別も関係なく、何年付き合っていても自由、子どもがいてもいなくても自由、結婚してもしなくても自分の生きたいように生きられる。
それだけで「なんかいいなあ」という印象を受けました。
「これまで私が生きてきた日本の社会とは対照的だなあ」と思っていました。
自分自身、「念が強く、度が過ぎると欝傾向になってしまう」自分の性格を知っていたので、
将来は心が楽に生きられる場所を探さないと、不幸になるということに気がつき始めました。
留学時代
オーストラリア留学時代
「やっぱりできる」を確信して、自信を取り戻しつつありました。
二つの仕事を掛け持ちしながら、TOEFLの勉強をして留学準備をして、海外に来ることができたんだ。
毎日が「やっぱりできる」という気持ちでした。
通訳、翻訳の勉強をして、友達もたくさんできました。
もうやめてしまったFacebookのアカウントでは、留学前は友達が2人でしたが、留学後には500人以上になっていました。
オーストラリアで付き合った彼氏は、英語学校の先生でした。
「引き寄せの法則」を強く信じている私は、欲しいものを全部書き出しました。その時に
引き寄せられてきたのが、当時の彼でした。
彼の家族は、私のことを本当の家族のように受け入れてくれ、「やっぱり自分が選んだ道でよかったんだな」という気持ちになりました。
大好きだったのは、アジア人を差別する人、外国人を差別する人も多い中で、彼の家族は、私のことを差別しなかったことです。
その時の私は、「やってくれて当たり前」という偉そうな態度だったと思います。
もっと感謝をすればよかったな。
過去の恋愛については、今になって気がつくことも多くあります。
オーストラリアは合計4年ほどいました。
オーストラリア人とつるんでいたこともあって、日本に帰国した時には、憧れのアメリカ英語ではなくて、オーストラリアの発音が身についていました。
留学時に学んだこと
- 自分で人生変えられる
- 引き寄せの法則は本当
- ネガティブ思考で不幸になれる
- 英語は海外にいるだけじゃできるようにならない
- 海外に住みたいけど上手くいかないこともある
- Stick to oneでなければ成功できない
オーストラリア時代と英語学習
オーストラリア時代は、
「どんな方法でもいいからとにかく英語を日本語と同じレベルでできるようにならないとやばい」
という気持ちになりました。
表面上の会話はいくらでもできるけど、いつまでも語学学校の友達と、
「昨日何時に寝た?何を食べた?テレビ見た?」
「Firstly , Secondly, Thirdly…」
「このレストランおいしいよ、アイレコメンドユー」
という会話をしていても仕方がありません。
まず現地の人と会話ができないことが全く快適ではありませんでした。
友達の集まりに行っても、誰と付き合うかを選んで付き合っている自分が嫌でした。
オーストラリア人がいたら、「わからない英語が出てきたらどうしたらいいのか分からない」ので、自然にアジア人とつるむようになっていう自分が嫌でした。
最初の数か月でこんな体験をしたので、「最初から全部周りの人の英語をパクろう」と決めました。
それから、テレビの字幕を英語にして、表現を書き取って、暗記して言うようにしました。
ホストファミリーの会話を聞いて、「こう聞かれたらこう言うんだ」という内容を真似しました。
例えば、
「How are you?」ではなくて、
「How are you going?(オーストラリアではなぜかこう言う)」「’m alright, you?」「Can’t complain」など、ネイティブの言っていることをそのままコピーです。
会話の中で、「思った」を言いたい時は、「I think」ではなくて、
「I would’ve thought(あいうdvthO)」と言うなど、全てパクりました。
一生懸命やった結果、オーストラリアは、アジア人でもオーストラリア育ちの人がたくさんいる移民の国なので、
「Where are you originally from?(元々はどこの国の人?)」と言われるようになりました。
留学生だとは思われなくなりました。
帰国後
帰国後の驚き
帰国後には、英会話学校に就職しました。
TOEICはとりあえず取っておこうと思ったので、試しに受けてみることにしました。
「TOEIC満点は難しいかもしれないけど、980くらいはとりたいな」
なんて思っていました。
でも、結果はなんと「900」いや、「890」くらいでした。
(あまりに衝撃的だったので、最初のTOEICの点数表は破り捨てました。)
留学していたのに、日本で自分で勉強していた時と100点しか違わないということがショックで、ちゃんと英語の勉強を始めました。
英会話学校に勤務している時に学んだこと
- 日本では、基本的に外国人が優遇される
- 日本人の働き方
- 残業に対する考え方
- 将来本当は何をしたいのかということ
- 3年後、5年後は人間としてどうなっていたいかという計画
- 愚痴や週末のクラブは意味がないということ
日本に帰国した後の英語学習
日本に帰国した後は、不思議と「こんなに英語を勉強していいことがあるのかな」という大学生時代の考えがなくなっていました。
幸運にも、就職先では毎日英語を使い、さらには英語学習することで確実に生徒さんに喜んでもらえるということで、楽しくなって勉強を始めました。
留学時の勉強方法とは違って、文法対策や資格試験対策に集中できた印象です。
英語学習に集中。シングルタスク。これが結果が出る方法だということがわかりました。
帰国後の英語学習の内容
- 勤務時間は9時間ほど英語
- 隙間時間は英語ネイティブと会話
- 通勤時間は2時間ほどオーバーラッピングやシャドーイング
- オーストラリア、イギリス英語の発音でしゃべり続けるために、Podcastを毎日聞く
- 読む本は全てペーパーバッグ
- テレビを見たければ、全てHuluで英語字幕付き英語ドラマ
- TOEIC対策のために、一つの問題集を5周以上、それぞれのパート毎の対策本を5周以上
- できなかった問題はひたすら同じような問題を攻略
- 英検1級対策は、10冊ほど問題集を全てできるようになるまで解く
メンターが言っていたのですが、人が一番幸せを感じる時は、必ず「貢献」の要素が入っているということです。
確かに今思ってみると、英語学習=誰かの役に立てる。
そんなサイクルになっていました。
英語学校に勤めていた時に、嬉しかったのは、
「かおり先生に出会えてよかったです」
「先生のレッスンが好きです」
「ホームステイプログラムに受かりました!すごく嬉しい!」
「英語全然だめだと思ってたけど、先生と勉強してから楽しくなってきた」
こういうことを言ってもらえるようになったことでした。
「やっぱりできる」を応援できるってすごいことだなと思います。
もう日本には住まないだろうと思った
英語学校勤務時には、優しくて楽しい人達にたくさん会いました。
一緒に働いて、出会うことができてよかったなという人がたくさんいます。
毎日語り合って、色々な考えを交換することもできました。
英語を頑張っている人達、夢を叶えたい子どもたちにもたくさん会いました。
私が勤めていた時は、1年契約で更新される形でした。
なので、次の契約はどうかなと考えることができました。
英語学校に勤めている時には、英語をもう一度頑張ろうと思って、英検1級、TOEIC960をキープしました。
働き初めて数年がたった頃、「英会話学校に勤務とかではなくて、私は人生で何がしたいんだろう」ということを考え始めました。
クラスを教えるのは楽しいですが、勤務時間が終わったら、自分のプライベートの時間で好きなことをする、仕事って拘束されている時間っていう考えを持っているっていうことかな?と自分の考えを振り返ってみました。
オーストラリアから帰国して、「やっぱり日本では生活しないだろうな、やりたいことを見つけよう」と思って、とりあえず契約を更新せずにどこかに旅行に行くことにしました。
退職後の計画
その時の私は30歳、周りの友達はみんな結婚して子供が2人目、出産といった状況でした。
当然私も家族や親せきから見えないプレッシャーを感じていました。
だけど、本当に心からそういう予定がない時って、どうしましょう。
本当に罪悪感と共に暮らすしかありませんよ。
心の中では「親は私が結婚して幸せに暮らすのを望んでいるんだろうな」って思いながら何もできない。
それで、両親は「かおりが幸せで一人で生活できる力があれば、それで私も幸せだから」って言ってくれてるけど、
本当は娘が結婚して子どもを産むのを望んでいる。
「もう、両親のその期待には応えられない…」
忙しくしている中でも、家族と過ごしているふとした瞬間に、そんな考えが頭に浮かんでくることが増えてきました。
私も周りの人に合わせて、婚活をしてみましたが、全く将来が見えずに2か月ほどで終了しました。
合わないことをやってみると、自分の道を正してくれるのでいいですよね。
「やってみたいことをやってみよう」と思ったので、
海外に住むなら、東南アジアで日本人教師として住む
せっかく時間があるからヨーロッパを旅行する
またオーストラリアに戻る計画をする
こういうプランが出てきました。
資金的にも大丈夫だったのが、東南アジアで日本人教師になることでした。
英語も通じるようだし、安全なところであれば、日本人教師として食べていくこともできる。
こういう情報を集めました。
同時に、ヨーロッパの旅行も計画しました。
日本からイギリスまで、ゴールデンウイークを利用して旅行をしたことがあるのですが、1週間程度だと弾丸トラベルで終わってしまいます。
なので、これから日本で働く予定もなかったので、ヨーロッパ周遊というのを考えました。
フランス語を少し勉強していたので、フランスでのワーキングホリデーについても調べました。
どうせなら、現地の友達がいた方が楽しいなと思って、Language Exchangeのサイトから、友達を探すことにしました。
もう別に恋愛とか出会いはいらないので、日本人を目当てにした「How are you sweetie」と声をかけてくる人は無視しました。
フランス人の女の子や、言語学習目的の人とコンタクトを取るようにしました。
その時になぜか連絡を取るようになったのが今の夫です。
感覚から学んだこと
- 行動しているうちに結果になることもある
- 感覚は大切
- 自分の心が一番知っている
- 人にもよるけど、人間自分の言う事しか聞かない
英語がきっかけでこんなことが…
当時スペインには全く行くつもりがありませんでした。
でも、頻繁に連絡を取る人が夫でした。
夫も他の人と同じように、「いつか会えたらいいね」「スペインに来てよ」ということを言っていました。
でも、「自分の道を生きる」と決めた私は、「飛行機代無駄にしたくないから」「お互いの時間を無駄にしたくないから」そんなことを言い続けていました。
でも、ある日、夫が「日本行きのチケットを買ったんだけど、会える?」と言ってきたのです。
それから夫が日本に会いにきてくれたのがきっかけで交際することになりました。
スペインに旅行
移住
結婚
出産(育児日記)
現在に至る
が過去の4年間の話です。
海外移住で学んだこと
- コンフォートゾーンを脱すると意外に気持ちがいい
- 不満があったら自分で変えられる
- 住む場所の天気が好きかどうかもポイント
- 思考が行動を作っている
- 自分は自分を主張してあきらめない
英語の教材や英語学校があるのに英語ができない理由
英語の教材、英会話学校が世の中にあふれています。
でも、英語が話せる人が、人口全体の3割程度、本当に言いたいことが英語で言えるのは1.5割と言われています。
参照元:英語しゃべれない人が7割という日本社会で「英語×自信×○○の関係」について私はこう思う
実際、教材や知識は十分なだけあります。
必要なフレーズ、「なるほど、こういう言い方もあったのね」という豆知識、英語学習テクニックは既に存在しています。
では、なぜ「英語がしゃべれる人が少ないのか」ということになります。
全ては学習方法が原因です。
やってないからですよね。
じゃあ、その「やり方がわかればできる!」ということになります。
正直、個人的には日本の英語教育が、「英語ができない人を育ててしまっている」と思います。
結局どうやったら英語ができるようになるの?
色々書いていますが、最終的に行きつく所って、
「結局どうやったら時間やお金を無駄にしないで、最速で英語がしゃべれるようになるの?」っていうことだと思うんです。
できることであればあまり苦労しないで、挫折しないで、隙間時間でお金をあまりかけないで英語が上手くなりたい
ということではありませんか。
①正しい方法を知る
②できる人がいることを知る
③正しい環境を選ぶ
④続ける
がカギです。
どれが欠けていても英語ができるようにはなりません。
私たちって、最短でできるようになりたい、「3か月で日常会話だけでも」という目標を掲げて、その目標になかなか到達できなかったら「やっぱりやーめた」となりませんか。
英語学習はまさにこれです。
あなたが今度こそ英語ができるようになる方法を無料プレゼント動画にまとめましたので、英語ができるようになりたい人は受け取ってください。
この方法で、私と一緒に続ければ、これだけの成果が出るようになります。
英語のリスニング、リーディング、ライティング、スピーキング、モチベ管理方法全体を知りたいという方はこちらからチェックできます。
まずは、行動の第一ステップ♪どこかの記事に飛ぶだけでも「英語ができるようになる」第一歩です(^^)